”慧”小論文


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Conceptual- Design- Laboratory

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1998年-11月5日…21世紀経済のデザイン-7-生命体のこころ…文責;山口泰幸

いよいよ「21世紀経済のデザイン」の連作も最終回になってしまいました。思いの丈の全てを語り尽くせる ことはまず出来ないのではないかという不安がよぎりますが、概念デザイン手法の”概念構造化仮説”に 基づいて展開しましたので、大きな漏れは無いと考えております。
ある意味では1回の慧での発信では不足であり、結果的に7連作も書かなければ、最低限度のことすらも書き得ない ということで、それだけ”時代が飛翔していく次世代”の経済、すなわち私達の21世紀の生き様総体を考え、デザイン していくことは並大抵なことではないということでしょう。
私が今回の連作において、対象が”経済”であるにもかかわらず、企業の戦略論や経営論、生産方式や技術開発 の細部について殆ど詳細には言及していないことが、あらためてお感じになられることと思います。 その理由は、私が経済という概念そのものを私達の生き様総体であると位置付けていることに起因します。
アメリカの経済学者の中には、「日本は経済よりも社会がまず優先なのだ」という見解を示しながら、それゆえに 「日本の経済革新は遅々として進まない」というような展開をする人もいるのですが、私はそうした見解は2重の 意味において狭隘に偏向していると思っています。
まず第1点目は、彼の言う”経済”とはいわゆる「拝金主義」という言葉が生み出されるような、金銭の裏付け でべったりと形成されている「経済資本の流れ」のみを取り扱った経済という概念であり、それが社会や私達の 生活に優先していると、そもそも位置付けているところに誤謬があるわけです。
第2点目は、彼の言う「日本は経済よりも社会優先する」という時の”経済のスタンダード”は間違い無く 現代の高度化されたアメリカ型資本主義に基づく経済運営の標準であって、冷戦に勝利したことにも助けられて 現在あたかも”絶対的真理”かのように喧伝されるものであります。
私は少なくとも21世紀以降の”経済”の概念は、「生き様総体」であり「生命体的存在」であると位置付けていますので、 そうしたアメリカ人経済学者の見方は本末転倒でしかも我田引水的な考え方だと思っています。
要するに”経済”を考える上では、”社会”という生命場も、”人々の生活”という生命場も包括的に”経済” そのものであって、それらを融合的にかつ調整的に(多少時間はかかりますが)考えることはもっともなことなのです。 日本人がそうした方法論を取りやすい傾向にあるのは潜在的に日本という「創造の生命場」で宇宙の理にかなた 方法論で種々のものやことを生み出していくということに慣れ親しんでいるからだと言えます。
21世紀はグローバル化します。これは疑い無いことですが、上記のようなアメリカ人学者が思うような グローバル化のゴールやアメリカンスタンダードによるグローバル化を「真のグローバル化」と混同してはならないでしょう。 そういう意味で既に繰り返し述べたように、現況の「国連的=連合国に有利的」な視座で21世紀の地球を 見るのではなくて、「太陽系視座」で新しい地球を見ることが必要であると考えているわけです。 その視座にはおのずと、「偏頗した利権的な見方ではない真に地球全体を見守るという思い」と「地球を大宇宙の 生命体的な運行の中に捉える」という考えが存在するわけです。

本論に入る前にもう少し…。
特にこの連作では”アメリカに対する批判”が目立つのではないかと思いますが、決して私自身はアメリカ人 やアメリカ大陸を敵対視しているわけではありません。私の根本思想には「排他=当所から相手を排除し、相手を 排除することによって自己のエネルギーを保全していく」という考え方はありません。従って21世紀以降を考える 上でどの国であっても「排他の対象」ではありません。しかしそういう中で、アメリカに対して批判的なのは 今後の地球的な融合化を準備するための必要な「切磋琢磨」であって、それが非常に重要であると考えているからです。 すなわち、上記の「偏頗した利権的な見方ではない真に地球全体を見守るという思い」と「地球を大宇宙の 生命体的な運行の中に捉える」立場から現況及び今後に思いを致すとき、どうしても避けて通れない問題があります。 それが、「人工国家アメリカ」と「それが生み出す人工的なシステム総体」をどのように生命的にというか、 宇宙の原理的に、「人為的に触れすぎた部分」を止揚していくのかという問題なのです。

この8月ロシアのキリエンコ首相(その後解任)は、やむにやまれず対外債務の凍結とルーブル切り下げを断行し ある意味でロシアの経済崩壊を食い止め、アメリカ系金融マフィアに膨大な資金が流出することに歯止めをかけました。 かれは「そのためだけに首相になった」のかもしれません。(勿論エリチン大統領の作為ではなくもっと人為を超えた 流れにおいて、そう見えるという意味) これによりアメリカ系ヘッジファンドは天文学的な損失を蒙り、今に至っています。…が、こういう筋書きが 私には、「宇宙の理」による必然的な生命維持活動に思えるわけです。他国の富は収奪するもの、他国の崩壊は 自己の増殖であると是認するような、極めて「自己中心的」な「人工的な仕掛け」は、結局「天に唾する行為」として 宇宙の理に反する者へ、そのまま跳ね返って来た…ということなのです。
このような既に膨大にはびこってしまったアメリカ型人工システムや考え方はこれからもいくつかの予想外の 事象を引き起こすことでしょう。…が、21世紀を迎えるためには、それらと果敢に対峙しながら、止揚的に 進化させていかなければならないわけです。

21世紀にはますます、本物の富を生み出すことや、それにどう投資していくか、生成化育していくのか、 虚無の資産とは何なのかというようなことが明確に提議され論じられていく必要がありますが、そのことを 踏まえながら、少し余談ですが、現在の各国の富の産出と経済の様相についてわかりやすく表現してみると 次のようになるでしょう。
すなわち、日本は…富創造の経済、アジアは…富創造の経済への途中(大きな挫折はしましたが)、 アメリカは…富浪費の経済、ロシアは…富幻想の経済、ヨーロッパは…富創造と消費の混合経済、という 図式になりましょうか。

ずいぶんと序文が長くなりました。そろそろ本論に入らなければなりません。

今回の連作のその1からその6までで、「生き様としての」また、「生命体としての」21世紀経済のあるべき姿を 縷々述べてきたわけですが、その最後にどうしても「生命体のココロ」を述べなければなりません。
最終回は今まで以上に”抽象論”になります。概念の世界では不可視で抽象的な存在がその後の具体的な展開 事象を決定付けます。いわゆる企業論、経営論、技術論、システム論などは膨大ではありますが、あくまでも 概念の最終的な展開事項として後々出現してくるわけです。従って今回のような21世紀経済の概念設計に おいてはむしろ抽象的な枠組みや言説が非常に重要になってくるわけです。逆にそうした抽象的な側面を 「文学的なもの」という位置付けにおいて「20世紀的な人工的な視点」で敢えて切り捨てたならば、 具体的な展開事象は玉石混交となりいずれは焦点がぼけて、また泥沼に陥ることは必至です。
従って、20世紀の良い遺産としての側面も持つ「科学主義的合理思考」を尊重しかつ多用しながらも、 いわゆる既存の「文学的表現な抽象論」をも明確に提議しておかなければなりません。

その最大のものが、「勿体なさの復権」です。「これは今捨てると、もったいない…」というときの勿体です。
もう少し補足すると、「資源は有限、智恵は無限」ということで、この思想は明らかに、20世紀を席捲してきた 「地球資源は無尽蔵(20世紀後半になって初めて実際的見地から環境問題などが出てきている。ちなみに 1960年代にローマクラブが-成長の限界-を提起したがその時点では一つの未来予測論でしかなかった)」 「消費は美徳、消費が経済を成長させる」という思想とは対極になります。
既に述べてきているように、21世紀の経済の中では、こうした心的な情報流の逆転が最も大きな特徴となり、 新しい経済のココロに位置する思想の流れ、つまり宇宙の把握の仕方が今までとは逆転的に違ってくるということになります。
「勿体なさの復権」の最大の特徴は、物理的な資源はすべからく「有限であり」「大切に扱うべきものであり」 「それらに価値を与えるべきものであり」「循環して使いまわすことによって種々の役目を引き出すことが功徳であり」 、同時に「有限の資源を賢く使いこなす人間の智恵こそが無限である」ということになります。
この展開のひとつの事例が、「ゴミという存在はありえないという概念展開であり」「いままでゴミあるいはオアイ と称されてきたものにも全て価値が与えられる」ということになり、畢竟、ゴミは有料で処分するのではなくて ゴミ(そういう概念や名前も消滅するが)は”お金を出して頂戴するもの”という風に逆転していきます。 ちなみに江戸時代、大江戸八百八町のオアイ(糞尿)処理はオアイ屋さんが”お金を払ってオアイを買っていた”とのことです。
また、21世紀に期待されているダイオキシン処理装置やプラスティックス分解微生物などの技術進化によって 「今まで埋められたゴミの山が一夜にして資源の鉱脈に化す」ということにもつながることになります。
20世紀は大量画一生産方式と大量消費・大量廃棄システム(システムではなく放置でしかありませんが)という 機械論的な宇宙資源の無際限な侵食作用を根本理念としてきました。しかしやはり宇宙の資源は無尽蔵のようであって その実有限であります。私達の智恵と力が無限とも思えていた宇宙の資源を超え始めているのかもしれません。
いずれにしても、「資源は有限、智恵は無限」として、資源が有効に循環され、無限の智恵の方に投資が向くならば 21世紀は物心ともに非常に豊穣な世界となるでしょう。
「勿体なさの復権」という”文学的で”一見”たわいもない”ような概念規定のなかにこそ 21世紀を見据える真理が存在するものと確信しています。皆様方がご一緒にこうした抽象的な概念の枠組みを 悩みながら捻出していくことを心よりお願いしたいと思います。

私が概念デザインした「21世紀経済のデザイン」という拙論は以上です。

ところで、昨日思わぬ発見を致しました。私が数万字を書き連ねながらようやく最低限度の21世紀経済への 思いを表現してきたわけですが、それを何と、三十一文字(みそひともじ)で見事に既に表現されておられる かたがおられました。私の拙なる言説や概念構造化仮説を遥かに超えて、端的に21世紀のありかたを描写 している、その歌を紹介してこの連作を締めくくりたいと思います。


『幾光年太古の光いまさして地球は春をととのふる大地』(御題;星)
『岬みな海照らさむと点(とも)るとき弓なして明るこの国ならむ』(御題;海)

………美智子皇后陛下御歌集;『瀬音』より

  


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