1999年-4月7日…ソロスの思考…文責;山口泰幸
再三再四私は「金融大魔帝国」という象徴的な呼称を用いておりますが、それはウオッチングしている対象が私にとっては
大魔と映るからであり、ネガティブに捉えているからです。ネガティブとは端的に言って、「宇宙の理(既に種種言及しました)」に
対して対極的であるという意味です。そのネガティブな対象の代表的表看板であるミスターヘッジファンドのジョージソロス氏が
今回の主題です。個人的に面識があるわけでもなく好き嫌いがあるわけでもありませんが、ネガティブな対象の代表選手としての
ソロス(敬称略)の分析を少ない情報の中からしてみたいと思います。
さて、その前に先述の大魔の意味をもう少し明確にしておきましょう。結論から言えば、ここでいう大魔とは、特に20世紀の後半に磨き上げられた
「(神と遊離することを前提とした)人間主体」の「均質性」「画一性」であり、そこからは「理想的な平均像」やその結果としての「排他主義の正当化」が
生じてくるものです。つまり「人間の傲慢な理性を御旗」に「物理的パワー」による「画一的な統御」を図ろうとする思考や姿勢です。
「金融大魔帝国」がとろうとしている戦略はこれらが基本テーゼになっており、金融経済の一極支配、情報の一元管理、グローバリズムの名のもとの
政治・経済の均質化です。話は変わりますが、宇宙の基本原理や生命現象の基本原理の中では「ゆらぎ」であるとか、今流行りの「複雑性」などが
極めて普通のありようなのであって、「均質性」「画一性」を見出すことの方が極めて難しいことなのです。逆にいえば自然の中にほんの少しの「均質性」を
見出すことで、そこに人工的な作為の存在を認めることができるはずです。人為的な一極集中支配を理想としながら、選ばれた(と自負している)人間が
統御対象(が可能であるとみなしている)である人間を管理していくという、彼らにしては正当な、本質的には宇宙の理に反する理念とアクションとを是とする
のが「金融大魔帝国」の本質であると言えます。
さて、そこで、門番代表のソロスの思考についてですが、今回あまり乗り気ではなかったのですが、彼が著した(と言われる)「グローバル資本主義の危機」という
本を読み、ちょっと掘り下げて観察してみました。ソロスについての著作は沢山ありますが、執筆した本は少ないようで、彼の思考を探るには
この本は現時点で最適でしょう。
…
ソロスがこの本を本当に自分で書いたという前提で分析してみます。…というのは全体を通じて、本当に本人の著作かなと疑念を持ちたくなるようなところが
いくつかあったからです。…が、とりあえず本人の著作としましょう。
全体を通じて言えることは、「学者的な論文形態」であって、評論家や経営者が書くのとは違った、独特の学者的言述が多いことが特徴です。
私が、ゴーストライターが書いたのでは?と考える根拠でもあります。経済論文としては、引用、分析、適用、論述方法からみてかなり高度であることは
間違いありません。もし本当に引用文献を全て彼が勉強し尽くし自分の中に昇華吸収しているとすると、経営者離れをした学究であり、それこそ
賞賛に値すると言えましょう。そういう意味でも厄介な(一筋縄ではいかない)人物ですね。
ただ、これはソロスの性格かもしれませんが、学者によくある「完璧主義的な論述」が散見され、短い文章において全てを語ろうとする姿勢が、関係代名詞の多用
を招き、読みづらい文章ではあります。文章的な完璧性と同時に、人生行路における完璧主義も見え隠れし、逆説的な自己批判をするものですから、
何か後味の悪い結論導入になっています。
…
ソロスの主張の原点にあるのは「誤謬性(ごびゅうせい)」と「相互作用性」で、英語ではfalibilityとreflexibilityとなります。
前者は「人間は間違いをおかす存在である」ことを、後者は「人間と場は相互に影響を及ぼしつつ進化していく」ことです。
そして、カールポパーを援用し「開かれた社会論」を前提としています。さらに、それゆえに、自分は自分の過ちを発見したら常にそれを改め
向上させて行くとも…。
…
これらは誠に正鵠を射た正論であり何ら反論する余地もありません。また彼の人生行路においてかなりの部分を「自己省察」に当てていることも
事実でしょう。…が、そうした高度な正論を駆使しながら、上述の「大魔路線」へと論が進められるところに、狡猾な仕掛けを感じざるをえません。
…
実際に、ソロスは相互作用性はカールポパーから学び、自分を含め極少数の人々がこうした革新的な概念を有していると言っているのですが、
1930年代に既に日本の大哲学者西田幾多郎が「場における行為的直観」論の中で、人間と場は相互に影響を及ぼし合う存在であると説いており、
ソロスが声高に革新的に社会を洞察する目を持っているなどとは言える理念ではありません。たしかに西欧社会、特に上述のような均質志向の
大魔帝国においてはある意味で「画期的な」自己の進化の方策かもしれませんが…。
…
さて、さてソロスの主張のどこに欺瞞性があるかというと、ひとつには、「人間には誤謬性がある」のだから、翻って、「私も過ちを侵す。それはありうることだ」
という展開の後、何らの今次のアジアにおける金融破壊の責任に言及しないことです。しかもこともあろうに、たとえばマレーシアがもう少し速く対応を
とっておけば、これほどまでにならなかったろうなどと、責任転嫁さえしています。たしかに人間には誤謬性がありましょう、ですが、結果責任も
厳然とあるのです。かれのとったアクションの直接的名結果アジアでは多数の人間が死んでいます。ソロスは誤謬性という言葉を巧みに使うことによって
人間らしい悔恨の情は一切表明していません。
ふたつめには、複雑系という流行りの言葉までも持ち出しながら、社会は開かれて進化していくと一方では正論をたれ、かたや誤謬性をただし進化していくためには
さらなる資本主義のグローバリズム(画一的統御の世界)の推進を強く主張しています。
つまり、ロシアのキリエンコによる実質的な借金未払い宣言によって生じた莫大な欧米系ヘッジファンドの損出を、「グローバル資本主義が未発達」である
として、そこに「誤謬性」を適用しています。すなわち、自分たちが損をしたのは「社会システム」が悪いのだと…。その「誤謬性」をただし、さらなる
利益を生じさせるために「進化したグローバリズム」が必要なのだと。
彼が言う、「(本の題名)グローバル資本主義の危機」とは、すなわち、巨大な金融資本が地球を破壊するという意味の危機ではなくて、
「金融大魔帝国がまともに稼げない、未発達の経済体制が現下に存在していることに対する」危機感にほかなりません。
…
金融大魔帝国が理想とする「真のグローバル資本主義」は本当に理想なのでしょうか?そこが最大の論点です。かれらは彼らの是とする理想社会に向かって
あらゆる手段を今後益々講じてくるでしょう。ソロスが繰り返し言及しているのは実はそこなんです。
ソロスは明確にこの本で、「理想的グローバル資本主義構造に地球を改造する必要がある」と宣言しています。前段の巧みな学者風論述は全て
その結論のために書かれているものです。つまりソロスはまだまだ満足などしていません。もっともっと金融資本の一極集中と地球規模の画一化の
ために強大な力を注力してくるはずです。
…
私が以前言及した「地球連邦」は画一的なものではなく、異種混合の調整機能としてのそれなのです。ソロスのめざすグローバリズムの世界観とは
全く違うものです。ソロスはそうした状況を熟知しながら、巧みにこれからも「似て非なる巧妙な言葉と言説」を以って、学者風に柔らかく、かつ高尚に
彼の画一的で統御可能なグローバル資本主義の必要性を問い掛けてくるでしょう。
…
私たちが認識すべきことは、そうした20世紀的な「人間中心主義」そのものが終焉を迎え、別の世界観が21世紀においていよいよ始まろうとしている
ということなのではないでしょうか。