1999年-10月3日…20世紀の負の遺産(東海村事故に思う)…文責;山口泰幸
1999年9月30日に起こった茨城県東海村における核燃料工場内爆発事故については、どうしても言及しておかなければならないでしょう。
当日テレビのニュース速報で簡単なコメントが流されました。
「東海村で爆発事故!発生」…原発における核燃料工場における爆発…というキーワードは、ぼんやりテレビを見ていた私を飛び上がら
せるに十分な響きを持っていました。臨界状態に達した核燃料がバクハツをするということは、可能性としてかのチェルノブイリの二の
舞になる可能性があるからです。
一瞬私の脳裏をかすめたのは、家財もなにもすべて捨てて、すぐにでもクルマで東名を下ろうかという
思いでした。たしかに茨城の東海村は神奈川県からは遠いところにあります。しかしチェルノブイリは数千キロメートルの広大な範囲に
甚大な被害を与えたのでした。それを思えば、たかが100km程度は爆心地のすぐ隣です。要するに、日本における「原発の爆発」という
事態は瞬間に日本全土を被爆地にする可能性があるわけです。
日が経つにつれ、事故を起こしたずさんなシステムと管理姿勢、防護に対する無策さが次々に露呈されてきています。
実際のところ、不幸中の幸いにも、重症ながらも死人がでず、臨界状況もおさまりつつあるということなので、一応終息状態に入りつつ
ありますが、この事故が21世紀の日本づくりに投げかける課題はとてつもなく大きなものと言えましょう。
結論的に言えば、これは100%人災といえます。違法なJCO独自の操作手順書の存在、それを見逃すあるいは奨励する管理体制、事故後のあ
まりに運を天に任せるかごとき防護体制、情報発信の遅れなどなど、そのすべてが人災であり、ぬるま湯にあぐらをかいてきた日本人の
心性へのしっぺ返しの様でもあります。ただただ被害が最小限であったことに天に感謝する…という状況ではないでしょうか。
現場のチームリーダーなる人の「それでも操作マニュアル自体が今回の事故の直接原因ではない」と開き直る姿勢にすべての原因の矛先
を向けることも、どうも正論ではないような、そんな根深さを感じるわけなのです。
核燃料を、東海村の敷地内とは言え、JCOという一企業が行っていることを、初めて知った人は私以外にも数多くいるのではないでしょ
うか。営利追求の株式会社形態の一企業が核燃料をつくる。しかも独占的につくる。そこに更なる営利追求のための間違った効率化、
手抜き、品質低下、仕事に対する驕りが出てきても決して不自然ではありません。
核燃料という20世紀が生み出した諸刃の剣をそうした
状況下において産出している基本構造およびその前提の考え方の設定にこそ、真の問題が宿っているわけです。まさに20世紀的な社会構
造の瑕疵そのものでありましょう。たぶんその上に政治的な利権や、天下り構造などが絡まっていることも十分に考えられます。
コンピューター2000年問題もしかり、山陽新幹線のトンネル崩落事故もしかり、公営住宅の崩壊現象もしかり、高速道路標識の落下事故
も然り…あらゆる20世紀的な大規模基本構造の瑕疵が表面に出始めたというのがここ数年の動きです。今回の核燃料事故もそのひとつの
現れでありましょう。
私が今回の事故で一番気になっているのは、核燃料製造工場のセキュリティの問題です。
核燃料がかくもこのような無防備な工場で、かくも簡単なプロセスで製造され、かくも高確率で臨界点に達することが可能であっていい
ものか…背筋が凍る思いです。
核燃料の臨界状態において発生する多量の中性子は核先進国が保有する中性子爆弾のまさにそれであり、日本は核武装こそしていないも
のの、中性子爆弾がいとも簡単に日本でバクハツする可能性を大量に保有しているということになります。
JCOというプライベート企業に侵入することは簡単でしょう。そこに時限爆弾をしかけることもできます。JCO職員を拉致して、彼らに
臨界状態を作らせることも可能です。事態は極めて深刻です。
現在、内閣改造を延期して大特急で万全の善後策を策定中かと思いますが、この基本的な脆弱部分が世界に露呈してしまった今、住民の
避難対策と共に「テロ対策」を十二分にすることが肝要です。21世紀はいずれにしてもエネルギー革命の世紀になるはずですが、核分裂
を前提にした原子力発電という極めて20世紀的な考え方とシステムを再考する良い機会であるのかもしれません。
私が言いたいのは、21世紀の日本における新しいエネルギー体系を構築するにあたり、既存の原子力発電にのみその解決策を委ねるので
はなく、さらなる省エネ、省エネ思想の醸成、太陽光、風力・波力等々のエネルギー、核融合によるエネルギー創出に注力すべきではな
いかということです。
核分裂という「引き裂きによる」エネルギー抽出は、「戦いと殺戮の時代」であった20世紀そのものをみごとに象徴しているではありま
せんか。20世紀の瑕疵が表出し、それらをわれわれが認識し、21世紀に向けて、それらから卒業し、昇華していくこと…そのための表徴
が今回の事故であるような気もするわけです。