『泰山の古代遺跡探訪記』

エッセイ集#12

"石神”という概念について

essay#12;2000-10-27
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日本のピラミッドや巨石を探訪してかれこれ20年近くになるが、なにがきっかけでそういう対象に興味を持ったのかといえば、…本当に定かではない。

意識して確認のため歩き始めた20年前より以前にも、今から振り返ると、何かに案内されるかのように巨石やピラミッド山、そして関連の重要な神社などに小さい 頃から立ち寄っていたことは確かなのだ。石や巨石は私にとって動物よりも身近な存在かもしれない。それは生活の中でごく自然に傍らに存在する対象なのである。
そうした対象に「神が宿る」ということは「命がある」と同意で、ほとんど疑問を持ったこともない。

しかし一般的には、物体としての石に神が宿るとか、命があるとかという議論は特異であり、良くても宗教的な観念の一部として「棚上げされる」のが通例であろう。
動物に命こそ在れ、心や意識が無いという認識と、樹木やましてや岩などに意識があろうはずは無い…という一般論は大勢を占めている感もある。
ところが表層的な一見科学的認識とはうらはらに、私たちの生活の中には「石」に関する事物、「石の存在感」に関する記述が非常に多いことに驚かされる。
遠野物語を著した柳田國男は、その中でいくつもの石に関する逸話を述べているが、その柳田國男が明治45年に「石神問答」なる石と人との関わりを論じた興味深い 書物を出している。残念ながら神田の古書店ではどうしてもそれを入手することはできなかった。
…が、その流れを受け継いだ人々によって、民俗学雑誌「郷土」の特別号として 『石』が『石神問答』の記念版として出版されている(1978年)。運良くそれを古書で入手することができたのだ。

その内容に付いては順次ご紹介していきたと思うが、 ここで言っておきたかったことは、”石の存在”が「生活に非常に密着し、愛着を持って語られている」こと、そして”石への思い”は日本全土に及ぶ裾野の広い ものであることだ。

私の石に対する感覚は『石』の中で語れているいくつもの石への親近感や畏敬感に近いものがある。要するに、石とは周囲ににたくさんある物体ではなく、 生活の中で身近に存在する”何者か”なのだ。
そう言う意味では、特別な磐座や御神体石、だけでなく、身近にあまたある石の中に、命も神も見出すこと、すなわち生命体的存在と見なして接することが、石に向かう基本姿勢なのである。

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石神の類は全国各地に夥しく存在すると考えられるが、個人的には石神と言うと、青森県にある大石神神社の御神体である大石神(ピラミッド)や甲府に散在する 丸石神を思い出す。甲府の丸石神などは漬物石の大きなものといった感じで、それこそ道端に何気なく積み重ねてあるような、非常に親近感の湧く御石様なのだ。
同時に巨石や磐座の中にはきっちりと周囲に柵が施され、注連縄が張られ、物理的にも精神的にもおいそれと触りにくい石神様もある。
気のようなエネルギーの噴出を手のピリピリ感で感知できるという知人によれば、丹後一ノ宮の奥宮である真名井神社の産盥(うぶたらい)という巨石(ウガノミタマの磐座) などはすざまじいばかりのエネルギーを発しているという。

石神という概念の中で前述の生命体的存在に次いで重要なのが、「石にエネルギーが入出する」という捉え方である。
石神には宇宙や大地からのエネルギーや祭祀に絡んだ想念などのエネルギー、また怨念や記憶としてのエネルギーが流入・流出すると言えるだろう。つまり石神の”神”の部分は 石神本体に宿った神霊的な面であって、物体としてのその石神(直径数十cmとか数mとかの丸い石)自体が神そのものではないという認識は重要なのである。

神霊的なエネルギーが留まり、流出入していく”場”の顕現(物体的現れ)が石神であり、神はあくまでも石神の背後に存在する不可視で深遠な概念であろう。 従って、石神そのものを偶像的に神として崇めるのではなく、石神というメディア(媒体)を通じて神霊的なエネルギーを感知するという姿勢が大切なのだと思う。

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石神の神が宿る社は物体としての岩石であることには間違いは無い。その岩石の成分や生成が一様かというと、そんなことはなく、それこそ千差万別である。
原始の海で生物の基となるアミノ酸の分子構造を生み出したのは、堆積岩の分子配列そのものであるという説がある。つまり無と静が有と動を生み出しているのだ。
花崗岩に高圧をかけると電機が発生する。電気が流れれば磁場も発生する。

京都の鞍馬山の奥の院には650万年前に金星から地球に降ったとされる魔王尊の(石灰岩?の)岩塊が現存する。石器時代にナイフに利用された黒曜石は殆ど”ガラス”なのだ。
地中のマグマは岩石でありながら流体である。水に記憶作用が認められつつある昨今、流体である岩石マグマに記憶作用が無いとは言えない。むしろ流体として神霊的なエネルギー を流出入しやすいのではないか。宇宙からは確実に氷や金属が地球上に降り注いでいる。

要するに石の生成も千差万別、石の種類も多種多様、石の様態も種々雑多であり、そこに宿るエネルギーも複雑なのだ。人間と同じように、否、それ以上に石神には 色々な側面があるという認識も必須であろう。

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最先端のテクノロジーによって半導体の集積率とマイコンの計算能力は圧倒的に向上している。かなり近い将来、DVDなどの”回転物”は全て駆逐されて、非回転の 半導体の「石」に殆どの記録が格納されることになるだろう。そう、半導体も「石」なのだ。そこには膨大な記録という情報、すなわち知的エネルギーが宿っている。
現代科学技術の粋(スイ)である最先端の「石」も実は『石神』ということができる。

しかも今後さらに半導体回路は分子レベルにまで極小化され、容量、能力共に数千倍になるという。手のひらの上の小石ほどの端末があらゆる通信・記憶・計算を可能にする。
逆に、同様の分子構造を持つ全ての既存の石たちから莫大な真実を引き出すことが可能になるかもしれない。全ての石には「石の記憶」があるといえるからだ。

テクノロジーの超進化は、この『石神通信』を世界に伝え、イシカミウエッブを構築することを現実に可能にしている。同様に、近い将来テクノロジーは 「石の記憶」を長い眠りから掘り起こすかもしれない。

時代とテクノロジーの進化にサポートされながら、人間が命在る「石神」に優しく、真摯に”耳を傾ける”そのとき、世界の「石神」たちが語り始める。


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