泰山の古代遺跡探訪記;エッセイ集

essay13;2000-11-2…巨石と歴史観
Copyright(C) 2000 by Taizan



筆者(泰山)の歴史観が数千年単位ではなく数万年単位であること、巨石文化をそうした歴史観をベースに捉えていること、は既に3年前に「歴史観と巨石文化考」の中で述べた。
石(身近に在る比較的小ぶりな石)や巨石(数m〜数十mあり存在感と何らかの意図が感じられるもの)に複雑多岐にエネルギーの流出入があることは既に「石神という概念」で言及しているが、 神霊的な側面はさておき、現実界における人的なそれらへの物理的関与も極めて複雑であることを先ず認識しておく必要がある。

石や巨石はある特定の巨石文化として一律に観察・思考できる対象ではない。現に、重要であると思われる数m大の御餅型巨石の表面に仏像の彫刻が施されたものもある。また、 巨石の組み石構造の一部が庭石などに利用されて部分破壊されているものも在る。飛鳥地方の人面石などは朝鮮半島に在る人面石とそっくりであるが、これらが益田の岩舟や 鬼の雪隠などのレーザー加工のような痕跡を残す巨石と同次元で語られているのも現実である。
諏訪大社のそばに在る”万治石”などは後世に載せられたその異形の頭部が、「モアイ像」にも対照されて、彫像として有名なのでは在るが、その胴体部分を構成する巨石の微妙な 曲面にこそ本来の巨石文化の重要性が隠されている。

石や巨石が”石神”として語られる以上、そこに祭祀が入り込み、仏像などの彫刻がなされ、そして文字や線刻画が表面を飾ることはやむを得ないことなのではある。 しかし、そうした比較的後世(と言っても数千年前に遡ることもあろう)の”重要な衣”が石や巨石の本質を消失させている事実にも目を向けなければならないだろう。
それは現在の人間にとって、御餅型巨石本体の存在よりも、その”衣としての祭祀痕跡や文字等”の方が当面の関心事でもあるからだ。 このような後世の無意識的な(罪の無い)石や巨石への”介入”によって、巨石文化に対する観念や思い入れはこの上なく千変万化に分岐しているに違いない。

結論の第一を申し上げると、筆者の探訪対象である石や巨石は、実は「祭祀や文字などの現在の人間が介在する」以前の巨石文化における”物件”なのである。
従って、祭祀痕跡や宗教美術・文字等の文化的価値を尊重しつつも、常に重大な関心は祭祀以前、文字以前における巨石文化の存在に向いているのである。
ただし、いうまでもなく筆者の捜し求める巨石文化の残照の多くは、そうした祭祀痕跡、文字文化の存在に大きく付帯していることも事実である。それは元来の巨石文化の 残照にそれだけの物的、神霊的パワーが存在していた(いる)からに他ならないだろう。
また縄文時代やさらに後世に人為的に石や巨石が取り扱われたことは明らかだろうし、広義の巨石文化研究には、それらの重要物件も当然含められる。

ギゼの大ピラミッドであるいわゆるクフ王のピラミッドには、その周辺のエジプト文明の文字文化(ヒエログリフ)に反して、実は文字痕跡は”無い”のだ。碑文は全て後世の解説書 である。そこにこそ、少なくともギゼの大ピラミッドの巨石遺構の大いなる意義がある。つまりギゼのピラミッドはその超高度なテクノロジーに”似合わず”、「形態」と 「構造」と「真理(全宇宙に有効な数学など)」のみによって悠久なるコミュニケーションを可能としている。
☆1837年にイギリスの軍人ハワード・ヴァイス大佐が、王の玄室裏に特別室を発見し、そこでクフ王の名を表す赤い塗料の絵文字が たくさん発見された…ということで、ギゼの大ピラミッドはクフ王のピラミッドと言われたのだが、現在ではその絵文字はハワード・ヴァイス 自身が描いた近代のものという認識が一般的である。ハワード・ヴァイスなる人物が山師的な存在であったことも明らかになってきている。

筆者はそうしたシンプルでは在るが奥義をのみ使用した汎宇宙コミュニケーション体=大ピラミッド本体を、巨石による”メタ言語”として認識している。”メタ言語”とは 通常のコミュニケーション言語の背後に厳然と存在する形而上的なコミュニケーション媒体という意味の造語である。因みに「石神通信」のイメージ画像もイシカミウエッブを 表徴する”メタ言語”として描いたものだ。”メタ言語”にはカタチや色はあっても文字は無い、音や音楽はあっても言葉は無い。そこにはシンプルで基本構造からのみなる ”宇宙の真理要素”とでもいうべき表現があるだけだ。(実際に”メタ言語”を描写するにはかなりの努力と「閃き=天啓」が必要となる。)

日本のピラミッドや関連巨石が”メタ言語”として物語っている内容は、ギゼのそれに比べて実は「更に深遠」であると思う。それは岐阜県金山町の岩屋岩陰遺跡のように、 完全なる構造を持つ巨大システムでありながら、ギゼのピラミッドのような幾何学的な単純形態をとらず、巨石群のポイントを押さえることによって、はじめて潜在的な 幾何学形態が浮かび上がるようにできている所が存在するからだ。日本のピラミッドや巨石遺構は殆どがそうした潜在構造をとっている。 その意味で日本のピラミッドや巨石群は”メタ言語”のさらにその背景に潜む”隠し絵的”表現体となっていると考えられる。

つまり、少なくとも日本のピラミッドや巨石群の重要物件は、「それ単体では」文字のように決して「読み取ることは極めて難しい」形態や位置によって存在しているのである。 そこに超古代巨石文化の探究の難しさと面白さがあるのだ。私はそれを”彼らの知的洒落”であり”パズル”であると解している。その”洒落”に感応したとき初めて、超古代巨石文化を 築いた彼らと「文字無き」、「言語無き」コミュニケーションが可能となるのである。

結論の第二を申し上げるならば、そうした超古代巨石文化の構築主体はおそらく現人間(ここ数千年で進化し、文明を築いた我々)でもなければ、そのルーツと言われている 新人でもないのではないか。縄文文化が見なおされている昨今ではあるが、その縄文人でもなく、…別の生命体ではないのか…そういう思いが絶え間無く脳裏をよぎる。 その最大の根拠は巨石の加工、積み上げのテクノロジーのすざまじさに存している。

上の言説をイメージしたものは、既に3年前から心象図としてオンウエッブしている。やや感性のほうに振れている作品だが、参考にしていただければ幸甚である。

Daidara

「数万年単位の歴史観」、「スーパーテクノロジー」、「別次元文明」、「”メタ言語”;隠し絵」、「ピラミッド・巨石総合システム」という5つのキーワードが、 少なくとも私の巨石文化探訪の基本概念なのである。

いずれにせよ、昨今次第に巨石文化への関心が高まりつつある中で(海外の海底遺跡に対する関心などはここ数年非常に高まっている。それは既存の歴史観を覆す 実証でもあるから)、限定された文化・宗教視点ではなく、先入観のある歴史時間ではなく、そして地球・人間に固着された閉塞的な視座でない、柔軟で広大な 姿勢と探究眼が巨石文化探訪には必須であると思う。


”エッセイ集”トップページ『泰山の古代遺跡探訪記』ホームページ電子メール