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神倉神社ゴトビキ岩

Kamikurajinjya-Gotobikiiwa ; wakayama


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神倉神社ゴトビキ岩(かみくらじんじゃごとびきいわ) 和歌山県新宮市神倉1-13-8

 神武天皇紀(日本書紀)には戊午年(ぼごのとし)六月(みなづき)に狭野(佐野)を越えて「熊野神邑(くまのみわのむら)に到り、 すなわち天磐盾(あめのいわたて)に登りて」…と記されている。
 神武天皇の聖跡である熊野神邑とは現在の新宮の古称である。天磐盾とは神倉山あるいは、神倉山頂上付近に鎮座する現在の通称ゴトビキ岩(神倉神社の御神体) であるとされている。
 市内最高峰の千穂ヶ峰の東南端にある神倉山120mの頂上付近にその御神体はある。ゴトビキ岩の標高は80mとか。  現在神倉神社は新宮市内にある熊野速玉大社の摂社になっているが、熊野速玉大社の奥の院とも言われ、元宮が神倉山にあったのでその 旧社に対して速玉大社の地を新宮としたという。
 神倉山は熊野大神が熊野において最初に降臨したとされる聖地で、ゆえに神倉神社は熊野根本大権現とも呼ばれた。
 538段の急峻な石段は、源平合戦での熊野の功労にたいして、建久4年(1193年)に源頼朝によって造営されたといわれている。
 神倉神社の御祭神は高倉下命(タカクラジノミコト)でニギハヤヒノミコトの子供である。

 参考資料;『ピラミッド山の具象構造と概念構造』

  探訪;2007年7〜9月 記;2008年1月 泰山

関連重要探訪記2014→阿伎留神社奥宮;琴平神社の大物主大神の磐座





写真001

神倉神社入り口にある神武天皇紀の石碑。天磐盾が神倉山であるとされる。



写真002

権現山;神倉山の説明書き
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史跡 熊野三山(権現山)
市内西方に聳える権現山(神倉山)は、神が降臨する神体山として崇められてきました。
主峰は千穂ヶ峰(253m)で「鎮護ヶ峰」とも記されたように神仏が鎮まり守護してくれる山です。
古くから熊野速玉大社の神降臨の神域として重要でした。権現山の南、高さ100m近い断崖絶壁には神倉神社があり 「天磐盾」とみなされてきました。また、ここには神が鎮座する磐座があり「ゴトビキ岩」と呼ばれています。
古来から霊域として、また修験者の行場として栄えてきたことがわかります。
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写真003

神倉神社の第一鳥居。ここから538段の急峻な石段が始まる。鳥居の傍らには杖が用意されている。
高所恐怖症の人にはかなり厳しい階段。段数よりもあまりの急坂に身が縮むことだろう。とくに帰りが怖い。 足を滑らせたら一巻の終わりだ。



写真004

天然石を使った急峻な階段を数百mほど息を切らせて登ると、突然目の前がひらける。
第二の鳥居を過ぎると全体が岩盤でできた参道が神倉神社へと続く。



写真005 

前方に穏やかな太平洋が見えてくる。 大海原と新宮の町を見守るようにゴトビキ岩はそこに“鎮まっている”。



写真006 

神倉神社の御神体としての磐座;ゴトビキ岩。ゴトビキとはカエルの意味だそうだ。 形状からそのように呼ばれたとの説明もあるが、蛙には見えなかった…
「琴弾き」という説もある。古代人は直接的な形状をそのまま命名するには感性もセンスも 高すぎると思うのであるが…。
ゴトビキ岩の存在感は圧倒的である。



写真007

御神体前の岩盤は超巨大な一枚岩である。その先端部分に入った割れ目。花崗岩らしい割れ方である。



写真008 

神倉神社境内から新宮市街地と熊野灘を見渡すことができる。絶景である。
6500年前の縄文海進時には海岸線がもっと迫っていたに違いない。 また海上から見ればこの御神体のゴトビキ岩はもっと間近に見えたことだろう。



写真009 

熊野川を望む。赤い大橋をこちらがわに渡れば、すぐに熊野速玉大社である。



写真010 

神倉神社の社殿と御神体岩を見上げたところ。



写真011 

神倉神社の社殿。



写真012 

社殿に覆いかぶさるようにゴトビキ岩が迫ってくる。



写真013 

黒潮に乗りながら航海してきた古代人はきっと海上からこの白い御神体を仰ぎ見たに違いない。



写真014 

社殿側から見た、先ほどの岩盤の割れ目。



写真015 

ゴトビキ岩の本質は「球体状の真白き塊」である。海上からはかなり目立つと思われる。 それにしても良い佇まいである。 ゴトビキ岩は先端だけ見ると転げ落ちそうであるのだが、意外に長い胴体で、根元はしっかりと 固定されているようだ。



写真016 

大きさ比較のための写真。ゴトビキ岩自体は高さ10m程度はあると思われる。



写真017 

ゴトビキ岩後方(神倉山山頂に向かう方向)にも同じような巨石がしっかりとある。



写真018 

その後方の岩とゴトビキ岩の間には明らかに人工的な”挟み石”の構造があり、その下には しっかりとした支え構造もある。また三つの巨石で形成された空間には白石が敷き詰められ、 ここで祭祀が執り行われたことは間違いない。
ゴトビキ岩本体も重要だが、こういう人工的な神の空間も非常に重要であり、神倉神社を 探訪した折には是非とも見るべきものであろう。
なお、この空間には先ほどの大岩盤を少し登らねばならず、おそらくほとんどの参拝者は 素通りしてしまのではないだろうか。



写真019 

聖なる祭祀空間の左側の巨石には穴が開いており、その中にひとつの白石が置いてあった。



写真020 

祭祀空間のさらに奥にある陰の空間。 組石構造ではないかと考えられる。



写真021 

ゴトビキ岩、祭祀空間、大岩盤のさらに上に赤い柵があり、私は非常に気なったので その赤い柵沿いに少し登って行くことにした。そこは写真のように巨石累々の場所なのである。



写真022 

さらに登ってゆくと、そこはちょうどゴトビキ岩の上方に広がる『巨石の原』であったのだ。 この『巨石の原』の最先端部の巨石がゴトビキ岩であることがわかった。ここを見つけられた 喜びはこの上ないものであった。



写真023 

ゴトビキ岩上方の『巨石の原』の中にあるユニークな巨石。特に人工加工痕跡と思われる 彫りこみがあり、ちょうど座れるくらいの凹部になっている。



写真024 

社殿を後ろから見たところ。社殿の真後ろにあるのが御神体のゴトビキ岩である。 これでゴトビキ岩の構造がよく分かると思う。ゴトビキ岩の上にも後ろにも 巨石群が夥しく存在しているのだ。



写真025 

『巨石の原』の気になる磐座群。



写真026 

同じく。この巨石にも気になる凹部が存在している。



写真027 

ゴトビキ岩から離れて、どんどん『巨石の原』の奥に入ってみた。



写真028 

ここが終点。私の足元の岩の下は断崖絶壁になっている。足元を真上から撮影したもの。



写真029 

神倉神社から熊野本宮へ向かうとすぐに出てくる最高の光景。左のピラミッド山らしきピークが 千穂ヶ峰、その手前右方向に突き出した部分が神倉山。写真の右上端にゴトビキ岩がある。
紀伊半島の新宮地域は地質的には花崗岩でできている。したがってゴトビキ岩も含めて神倉山全山 は花崗岩の岩石山であると言える。
ただし、先述の祭祀空間を形成する一部の巨石には花崗岩らしからぬ小さな甌穴もあるので、 特に祭祀遺構の岩質に関しては今後精査が必要であるだろう。
おそらく千穂ヶ峰全域をさらに詳しく調べれば、ピラミッド山の要件がいろいろと出てくるのではないだろうか と考えている。次の機会が楽しみである。


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