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Copyright(C) 2000 byYoshiyuki Sato
泰山の古代遺跡探訪記 Presented by…![]() |
さとうよしゆきさんからの情報提供です…
先日予告しておりました青森県の靄山に8月19日、行ってまいりました。当日の天候はほぼ快晴、津軽半島北部では珍しい30℃を越える「真夏日」でした。
一応、十三湖に浮かぶ中の島の「レストランなかのしま」の方(地元では有名な郷土史研究家)に話をお伺いして登山口を確認。 国道339号線を北上し脇元郵便局から右折、山体直下に脇元小学校があるので、そこに車を停めさせていただき、すぐ隣の大きな鳥居から登山道 (本来は参道と呼ぶべき?)を登るといい、とのこと。実際に行ってみると、全く説明通りでした。
靄山は海岸沿いの小高くなったところからいきなり山が立ち上がっているので、裾野と呼べるものは無いのですが、小学校の敷地のとなりでは裾野 の一部を削ってグランドの拡張を行っているようでした。大きな鳥居の向かって左側が脇元小学校。右が裾野を削ったグランド(重機の一部が見えます) 山麓を削った法面は写真では山土のように見えますが、近寄ってみると砂の分量が非常に多いサラサラした崩れやすい土砂でその上を植生による腐 葉土が覆っています。
青森ひばの大きな鳥居をくぐって少し行くと、山の斜面が始まり今度は数基連なった赤い鳥居が現れました。(ちょっとお稲荷様風です) 海岸でゼロリセットした気圧高度計で70m地点までの登山道の地面は完全に海砂で覆われており足が埋まって歩きにくい。周りの植生はほぼ全て が海岸の砂地を好む「柏の木」です。------------------------------------------------------------
高度70m地点まで山体の西斜面を南方向に向かって一直線に伸びていた登山道が、ここから向きを変え東向きにスイッチバックを繰り返し登り始 める。斜度もきつくなり道沿いの柏の木には手すりがわりのロープが張ってある。
地面は相変わらず砂を含んではいるものの土砂・礫・メロン程度の大きさの石に変わっている。斜度がきつく足元の地面がどんどん崩れてゆき、つ ぶてほどの石が次々下に落ちて行く。脇元小学校では年に一度登山会があると聞いているが、小学生には危険かも知れない。「きっと都会の小学校 ならすぐに問題にされるんだろうなあ」なんて考えながら登る。
約20分程度で登り切ってしまった山頂は50坪ほどの広場になっており祭事に使用すると思われる小屋が建っている。何かの神様が祀ってあるよ うだがよくわからない。
とはいっても靄山大祭は岩木山大祭(8月末)と日を同じくして行われるとのことで岩木山と通じるものがあるのだろう。大祭の準備がまだなの か、下草は腰の高さ近くまで伸び放題になっている。草をかき分けてみると祭事に使うであろう石造りの水受けがある。
地面はやはり砂地である。植生のため土に覆われているのだが、明らかに土と海砂の混合という感じである。足踏みすると比較的柔らかい感触で 「ボンボン」と響く感じがする。結構下の方まで草木の根が張っている感じで、岩石や土砂が浸食された山頂独特の硬い締まった感じは無い。 数本立っている木製の柱は、祭りの時にのぼりでも立てるのだろうか。
また何に使うのか解らないが山頂にH鋼の鉄骨が刺さっていた。(立っていたと云うより刺さっていたという感じである) 山頂からは伸び放題の草木で視界があまりよく無かったが、よく整備されていたであろう太古の昔は安東水軍の拠点であった十三湊・岩木川が蛇行 する津軽平野・岩木山・日本海を航行する船舶がよく見えたことであろう。------------------------------------------------------------
さて、登下山の間に周りの様子をよく観察した結果、この山についていくつかの疑問点が沸いてきました。
1. 以前も書きましたがこの手の急峻な円錐形の山は古火山の残丘であることが多く、山体は岩塊であることが多いのに視界に入る部分では全く 岩場がなかった。
2. これだけ急峻な山の(急峻=浸食に弱い)表土が砂礫であることの矛盾。比較的近い時代に人為的に積み上げられたのでなければ数千・数万 年の間に鋭角的なシルエットは失われるはず。
3. 70m地点までほぼ完全に表土が海砂と同質の砂地であること。
こうしたことから、地元の方々が語り継いでいるように人工山である可能性はかなり高いような気がします。 靄山が全て一から積み上げた人工山とは山の規模からは考えにくいので、きっとベースになる山が山体の下にあるのでしょう。
で祭事や海上航行の目安に良いようにベースの山に盛り土をして形を整え、浸食に強いように砂で表土を覆う。そして永年の間に70m地点以下ま で急峻な部分の砂が流れ落ち現在の靄山の形になった。こんな風に考えたいですね。今回の調査?では、何人かの地元の方のお話を聞くことができましたが、皆さん「靄山の人工山説は太古に思いを馳せるロマンなんですよ」という ニュアンスのことを口々におっしゃっていました。 津軽の方はよその地方から来た人に対して、はじめは人見知りぎみですが、自分たちの郷土史に興味を持っていることが解ると、忙しい仕事をほっ たらかしてつき合ってくれるような暖かい人たちが多く、おかげで今回もとても助かってしまいました。 今度は十三の遺跡巡りをしてみたいと思っています。
靄(モヤ)山頂上へ至る登山道;参道---photo(C)-2000-by-Yoshiyuki Sato
参道中の赤い鳥居の列---photo(C)-2000-by-Yoshiyuki Sato
靄(モヤ)山の山麓にある砂---photo(C)-2000-by-Yoshiyuki Sato
靄(モヤ)山頂上;祭祀用施設か---photo(C)-2000-by-Yoshiyuki Sato
靄(モヤ)山頂上から十三湖方面(南向き)の眺望---photo(C)-2000-by-Yoshiyuki Sato
靄(モヤ)山頂上にある凹部のある石---photo(C)-2000-by-Yoshiyuki Sato
靄(モヤ)山と鳥居---photo(C)-2000-by-Yoshiyuki Sato
秀麗な姿の靄(モヤ)山;ピラミッド---photo(C)-2000-by-Yoshiyuki Sato
さとうさんお疲れ様でした。晴天に恵まれたということは先ず以って嬉しいことですね。
私は直接まだ見ていませんので、全体の”空気”を感じ取るまでには至っておりませんが、さとうさんの写真がすばらしいので、 靄山(モヤヤマ)の持つエネルギーのようなものが伝わってくるのを感じております。
十三湖の北端に聳える靄山が以前から古代史、巨石マニアから「ピラミッドではないか」と言われていることは周知の事実です。
靄山は標高わずか122mの小山ですが、佐藤さんの写真からも分かるようにその見事な美しさに、偉大な存在感を 覚える人は少なくないでしょう。超古代の精神・文化・技術・生活のコアであったと考えられる原初ピラミッド「ヒラミツト(と呼びたいですが)」 が何よりも備えなえればならない条件が、靄山の如き”秀麗さ”だと思います。それでこそ、「その地域の全ての中心」になりえると思います。
標高122m中の70m付近までが”砂積み”であるというのは大変興味深い話です。また、最後の写真ではわずかながら四角錐の稜線のような影が見えますね。 頂上付近の凹部のある石は祭祀に絡んだ比較的新しい(それでも千年単位の歴史を持つ)ものではないでしょうか。四角形の凹部や柱の跡などは 岐阜県や九州でも見られます。
文化的に岩木山と関係があるということも大変興味を覚えます。お祭りが同日開催であるとすれば、祭祀的には関連性が極めて強いわけで、岩木山にも 御神体山としての何らかの祭祀跡があると思われます。尚、岩木山はほぼ靄山の真南にあります。
靄山山頂からの十三湖の眺望は何ともすがすがしいものですね。広島の葦嶽山でも同じ思いをしましたが、とにかくピラミッド山からの 眺望は「全てを忘れさせる位の安堵感と安寧感」があるんです。そういう意味でも靄山はピラミッドとしてふさわしいと思います。
今回は写真からは山腹や山頂の巨石群は見当たりませんが、更に調査を進めれば、巨石群が発見できるかもしれません。 靄山のように祭祀に確実に絡んでいて、しかも超古代巨石文化の痕跡としての周辺の巨石群がセットで確認されれば、靄山のピラミッドとしての 深みが一層増してくるでしょう。それと同時に岩木山、八甲田山、恐山、北海道の渡島半島との総合的な関連において靄山の位置付けが見えてくると 面白いと思います。
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靄山;もやのかかるやま…とはいかにも意味深長な命名です。古の人たちが何故”もややま”と名づけたのか…きっと山のオーラを見ていたのかもしれませんね。 …泰山…