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玉置神社玉石社

Tamaki-Jinjya-Tamaishisya; Nara


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玉置神社玉石社(たまきじんじゃたまいししゃ) 奈良県吉野郡十津川村玉置川

   玉置神社は熊野三社の奥の院とされ、玉置山の頂上(標高1075m)の南に鎮座している。 約3万uの境内には杉や檜の巨樹が林立し、樹齢3000年と伝わる神代杉もある。 大峰奥駆道の行き帰りのクロスポイントでもある。
 熊野本宮には玉置神社(玉置山)の 遥拝所があったと「紀伊国風土記」に書かれているそうだ。崇神天皇の代に熊野本宮と共に 創祀されたと「玉置山縁起」ではうたわれている。
つまり熊野本宮と玉置神社は繋がりの 深い間柄にあるといえる。玉石社は玉置神社の奥宮になる。

 玉置神社の玉石社にはいつかは必ず行きたいと願っていた。今回その機会が訪れようとは 実は思っていなかった。
 熊野本宮へは19歳の時に初めて行っている。遥か昔の話だ。今回2度目の参詣になったわけだが、 新宮の神倉神社で時間を費やし過ぎ、大斎場(おおゆのはら)と本宮を参詣し終わったのは 既に15:30を回っていた。
 その日のうちに熊野市、尾鷲市を経由してどうしても伊勢まで辿り着かなければならない。 だから本宮に着くまでは玉置神社まで足を伸ばそうか伸ばすまいか迷っていた。
 おそらく玉置神社を出るのは早くても17:00を過ぎる。ということは運が悪ければ 、漆黒の闇の山中を数十キロ走りぬけなければならない。  それでも本宮を出る足は、国道168号線を左に曲がり、有無もいわせずに十津川方面へと 向かっていた。
 熊野本宮は新宮から熊野川を北上すること数十キロのところにある。しかも行けば行くほど山は深くなる。 ましてや玉置神社への道は、本宮への行程をさらに極端にしたような山の中の狭い道なのだ。 十津川温泉を経て折立を右折する頃には道はますますその狭隘の度を増し、ナビがなければ すっかりとルートを疑るほどのものだった。

 16:20分頃、玉置山まであと20分ほどのところで、予期せぬ足止めを食らうことになる。 なんでも落石防止工事のために時間制限つきで道路が通行止めになるのだ。こともあろうに 全面封鎖である。ここでもたついていたら伊勢には戻れなくなる。次の臨時開通まで40分ほども その場で待機してくれというのだ。せっかくここまできて 玉置神社に行かずに新宮に引き返すのも口惜しい。  だから、強引とは思いつつも工事現場の男衆に事情を話してなんとか通過させてもらった。

 玉置神社の駐車場に到着したのは16:30を少し過ぎていた。15分は掛かる参道を小走りで駆け抜け、ようやく 玉置神社本殿にたどり着いた。参詣の人影も殆どなく、で会ったのは登山の若者と参詣帰りの独りの女性のみであった。
 玉置神社の本殿はまことに渋みのある良い佇まいをみせていた。本殿とその周辺を見ていると、神主が歩いてきた。 「玉石社へはどう行くのですか?」と尋ねると、「少し下った三柱神社の横を抜け、小さな鳥居が玉石社の入口です」 と応えが返ってくる。「20分くらいで着きますよ」…

 この分だと玉置神社を出発するのは17:30を過ぎるかもしれない。十津川の山深くを出るにはぎりぎりの時間だ。 わたしは急いで玉石社の方へと足を運んだ。
 言われた小さな鳥居はすぐに分かった…が、その先の参道はもはや登山道である。呼吸を整えながらできる限りの スピードで玉石社を目指した。

 果たして、10数分ほどのきつい登りの最後に現れたのは、神社の原初の姿を未だとどめた、重く深い存在の 玉石社であった。
 玉石社の存在感は1989年に登拝した三輪山の奥津磐座に酷似している。その波動も同様で、重大なつながりを そこに感じざるを得なかった。

 玉石社の”玉石”は剥き出しの御神体でもある。御神体は無数の白石に囲まれ、また杉の巨木に護られながら 静かに品位を保ちながら、そこに”おわした”。御神体は悠久の時を経ながら、ひたすらその場で私たちの来訪を 温かく待ち続けている…そんなことを感じたとき、なにかとても申し訳なさが溢れ返った。

 ”玉石”の背後に、幾つもの重要な磐座がある。三石社と呼ばれる三つの磐座を御神体とした場は、玉石社と 共にその一帯を聖地にしている。三石社の神々はイハに関わる神々であり、玉石社の御祭神はオオナムチノミコトである。
 玉置神社奥の院、玉石社の重要な点は、そこにある…ことを実感した。

 9月の黄昏はそれほど暗くはないのだが、玉石社のある玉置山には急速に山頂から狭霧が降りて来て、私が玉石社を 参詣する頃には山中は闇の中という状況であった。  しかし、その場の心地よさはこの上なく、時間を忘れ暫く玉石社の前で佇んでしまった。

 参詣を終え、急ぎ駐車場に駆け降りたときには既に時刻は18:00近くになっていた。わたしはレンタカーのナビを 入れ、最短距離でまず尾鷲に出る道を選んだ。…それは実に過酷なルートの選択であったのである。

 玉置神社から出るには、本来は来た道である国道168を本宮に戻ってから、新宮に向かうのが良い。特に夜半はそうであろう。  ナビで尾鷲までの最短ルートを設定したが故に、玉置山を下りて折立で逆に168号線を北上するはめになった。
 折立からほどなくしてナビは右折せよという。国道425に向かうようだ。指示されるがままに右折して見ると、国道とは名ばかりの まるで狭い林道ではないか。それでも最近のナビの性能を信頼している私は、そのまま国道425を突き進むことにした。 それが有名な魔の”酷道425”であることも知らずに…

 折立から10分程も走ると日はどっぷりと暮れて、黒々とした山波が迫ってくる。ヘッドライトとナビだけが頼りの 本当に過酷な闘いが始まっていた。目が衰えた私には既に50m先はぼんやりである。時々現れる看板には落石注意、 転落注意の文字しか出てこない。それでもナビは「正しく」この”酷道”を進めと催促してくる。

 平均時速30km以下のスピードでは行けども行けども距離はこなせない。だいぶ走ってナビを見るとまだ5kmも進んでいない。 冷酷にもナビは尾鷲まで残り80kmと表示している。
 …結局、酷道425を抜け出るのに2時間もかかり、尾鷲に着いたのは玉置神社を出てから3時間後のことだった。そこからさらに 伊勢まで帰るのであるが…

 いまから思えば、この過酷な体験は…玉置詣での良い思い出としてセットになっている。玉置とは「それほどの場所」という ことなのだと思う。…次回は…もしかして大峰奥駆道を…歩いて訪ねることになるのやも…  

  参考資料;『ピラミッド山の具象構造と概念構造』

探訪;2007年9月 記;2007年11月 泰山





写真001

玉置神社のロケーション。奈良県の最南端十津川の山奥にある。



写真002

玉置山周辺案内図。周辺には有名な瀞八丁や十津川温泉がある。



写真003

玉置神社境内の詳細図。世界遺産にもなっている玉置神社には幾つもの社があり、 玉置山全体が境内のようになっている。その中でも玉石社は重要な社で、霊石や 磐座が溢れるようにある。



写真004

駐車場から参道が始まる。その入口にある玉置神社の鳥居。
16:30頃に参詣を始めたときは、まだかなり明るかった。



写真005

駐車場から歩くこと約15分。参道の途中から下りになり、数分歩くと2段構えの鳥居に出る。
玉置神社の本殿に到着する頃には、山全体が霧に包まれ始めていた。



写真006

玉置神社本殿前の狛犬。正面向きに左の吽形。



写真007

玉置神社本殿への登り階段。



写真008

玉置神社本殿前の狛犬。正面向きに右の阿形。



写真009

玉置神社本殿前の鳥居と注連縄。



写真010

玉置神社本殿全景。
御祭神は、 国常立尊(くにのとこたちのみこと)、 伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)、  伊邪那美尊(いざなみのみこと)、  天照大神(あまてらすおおみかみ)、  神日本磐余彦尊(かむいわれひこのみこと)である。



写真011

玉置神社本殿サイド。



写真012

玉石社へ向かう入口にある三柱神社。
御祭神は倉稲魂神(うがのみたまのかみ)、 天御柱神(あめのみはしらのかみ)、 国御柱神(くにのみはしらのかみ)で、倉稲魂神はニギハヤヒノミコトの弟神にあたる。



写真013

玉置神社本殿のすぐ隣にある若宮社。御祭神は大山祇命。



写真014

若宮社の隣が神武社。



写真015

神輿殿と神代杉。



写真016

玉置神社の奥の院とも言われる、大本命の玉石社。三柱神社からややきつめの山道を15分ほど登る。
玉置山山頂間近にひっそりと佇む、まさに神の降臨を感じさせる趣深い神社である。
御祭神は大巳貴命(おおなむちのみこと)。
玉石社の由来は御神体としての”玉石”にある。玉石社を訪れたそのときに、急速に狭霧が降りはじめ、 黄昏時の山は一層の暗さを増していった。玉石社を囲む杉の大木の間を縫って、秋風が”玉石”を通り抜ける。 1989年の三輪山奥津磐座参詣以来、久々に味わう心地よい”重みと深み”であった。三輪山と同等の意味を感じたのが この玉石社だ。
玉石社には社殿はなく、簡単な木の柵が巡らされているだけである。御神体は”玉石”と呼ばれる自然石で、その御神体を 直接拝謁することができる。神社の原型を残す誠に貴重で麗しい神との交流の地なのである。



写真017

『秋風に狭霧降り来る玉石社』…

長年の念願であった玉石社への参詣が叶い、その御礼も含めて静かに祈りをささげていると、凛とした空気の中、 私の頭上で「カラカラ」と何かが鳴った。
まるで私の祈りに呼応したかのように何かが音を発したのである。
見上げると注連縄につけられた4つの紙垂(シデ)の真ん中の2つだけが大きく揺れながら互いにぶつかりあって 「カラカラ」といっているのである。こういう不思議なことはよくあることなのだが、玉石社でのそれはひときわ 印象深いものであった。
玉石社で霧はさらに深く深く立ちこめ、独り幻想の世界に誘われながら、暫し玉石の意味を 感じとっていた。



写真018

杉の大木に護られて、わずかに頭をのぞかせているのが”玉石”である。
この石ゆえに玉石社というのだそうだ。もちろん私が玉置神社を訪ねたのはこの ”玉石”を見ることである。
”玉石”は言い伝えによると地上部分はわずかで、巨大な岩が地中に埋もれているそうだ。 関東の鹿島神宮の「要石;かなめいし」にも同じような言い伝えがあったことを思い出す。
”玉石”の周辺には小粒の夥しい白石が敷き詰められている。



写真019

”玉石”の背後にある存在感のある磐座。
この石も霊石であると思われる。極めて印象に残る石であった。



写真020

”玉石”部分をフラッシュ撮影したもの。無数に浮かぶ玉響(たまゆら)か…
”玉石”の”玉”とは、神との交信メディアである。



写真021

玉石社のさらに上部に位置する三石社。別名白石社とも呼ばれる。
その名の通り、三つの霊石が並んでいる。 御祭神は磐裂神(イハサクノカミ)、石折根神(イハサクネノカミ)、軻遇突智神(カグツチノカミ)。

霊石三ツ石神祠
御祭神  磐裂神、石折根神、軻遇突智神

古事記傳に、この神々の御名は、石根折ということから 分かりて名づけたりと云へり。
磐をも根をも刺し裂くほど稜威まします神にして、 皇孫の為に斎き奉るべしと見えたるを始めとす。



写真022

木の柵で囲われた三石社の全景。

直接この霊石に触ることはできなかったが、いつも見慣れた花崗岩や堆積岩ではない。 後日調べたら、なんと「枕状溶岩」であるとのことであった。つまり太古、深海底で マグマが直接冷却されてできた岩石である。となるとまさに火の神である軻遇突智神を 祀っていることが理解できる。



写真023

玉石社から見た三石社。何とも趣深い美しい情景ではないか!



写真024

三石社の中の霊石群。中央の磐座が最も大きく存在感がある。
三石社の磐座と、その手間の霊石の迫力は圧倒的で、”玉石”自体を あたかも守護しているかのような印象を受けた。
玉石社の凄さは”玉石”もさることながら、その背後のこれらの巨石群によって 現出しているのだと思った。
私的な心象なれど、玉置山の玉石社は三輪山の奥津磐座に次いで偉大なる存在である。 果たして、(それは後日あらためて知ることになるのだが)三輪山と玉置山は深い繋がりが あったのである。



写真025

玉置神社参道にある木の祠。


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